「石上呪法」を今に伝える風早物部氏の廟宇
伊豫の國津(饒田津)大神
櫛玉饒速日尊神社・櫛玉比賣命神社
本年(平成25年=西暦2013=皇紀2673)は国家的規模の神道祭祀が行われる、極めて日本国民にとってご慶事重なる、おめでたい年である。すなわち天津神の頂点に君臨し我が国の本宗と崇め称される伊勢神宮が、20年に一度の式年遷宮を迎え、(天皇陛下の御治定により内宮様は10月2日、外宮様は10月5日に「遷御の儀」を斎行)一方国津神のドンたる出雲大社は60年に一度の大遷宮を薫風の中で迎えた。
20年ごとに「式年遷宮」を繰り返す伊勢神宮とちがい、出雲大社の遷宮は「随破遷宮」といって損傷が進んだ時に行うため、だいたい60年に一度というきわめて流動的なもの。今回は5月10日から26日にかけて平成の大遷宮「本殿遷座祭」が行われる。出雲大社は古代においては高さ16丈(48m)と伝えられ国内最高の木造建築。高さ八丈(24m)の現在の御本殿は延享元年(1744年)に造営され、以来文化6年(1809年)・明治14年(1881年)・昭和28年(1953年)の三度の御屋根替えと修理を経て、今回60年ぶりの甦り(神威の更新)の年を迎えたことになる。
遷宮成った出雲大社へもいずれ近年のうちに参拝したいと考えているが、遷宮直前の伊勢へは愛媛県神社庁主催の「お白石持ち行事」参加の為、今年8月29日から31日にかけて参宮することにしている。20年前には25歳の紅顔の青年だった私も、45歳の白髪混じる中年となった。高齢者となって迎える20年後の式年遷宮までは、せめて元気で生きたいものだと願うものである。
その伊勢神宮の内宮・外宮の例を引くまでもなく、男神・女神とペアで祀られている神社は相当古い鎮座の歴史を有している。しかも愛媛県内最大級を誇る二基の前方後円墳の上に、鎮座されていることからそれが考古学的にも裏付けられているといえよう。このように風早宮大氏神の御両社(櫛玉饒速日尊神社=國津比古命神社・櫛玉比賣命神社)は現在に至るまで物部氏神裔たる風速国造神主家が代々宮司として奉務する、全国屈指の古社の一つであり、風早物部氏の宗廟である。そして数多の年中際の中で秋季例大祭には女神が男神に毎年新調する御神輿にお渡りを願う(神婚儀礼=交婚=マグワイ)ご動座祭の儀が淨闇の御殿のうちで蝋燭の火のみで、秘祭が斎行されていく。(当社特殊神事=『宵の明星』)もちろん撮影禁止である。
私はあえて現社名「國津比古命神社」を古名「櫛玉饒速日尊神社」と表記した。氏神さまニギハヤヒを祀る神社は全国に少なからず点在するが、その社頭の隆盛が古代の名族・物部氏の栄枯盛衰と密接にかかわり、また奈良時代に始まる伊勢神宮を頂点とする国家の新しい神祇政策によって、元初の太陽神ともいうべきニギハヤヒとその妃神を初めとして縄文の古層の神々の存在が、不当に貶められてきた現実がある。
それは時に社名や祭神の書き換えを強いられるという、氏子にとって受け入れがたい官命の形で現れたり、あるいはまた所以(ゆえん)ある鎮座地を追われ他の神社に合祀された。主祭神の高御座から、鳥居脇や境内末社の祓神へと零落されてきた例を、私は物部苗裔氏子として無念の涙を流しながら、全国各地の神社を探訪してみてきたのである。
その点、県内有数の境内地と社叢・社殿と何よりも、秋祭りに顕れる崇敬心によって2000年以上護持されてきた、風早宮御両社は幸せである。そこに風早人の矜持を感じる。先祖風早の民人たちは、そんなニギハヤヒ・バッシング旋風吹き荒れる中に在っても、あの長い長いニギハヤヒの尊号名は一度として改変せず、残念ながら社名は一時「頭日八幡宮(かぐひ)」と体制に迎合せざるを得なかった苦難の時代もあったが、それを乗り切るや、すぐさま旧号に戻すなど、天皇家と相並ぶ格式と降臨伝承を有する天孫族・物部の血筋を誇りに思いつつも、常に不撓不屈の精神で風早宮大氏神御両社を今に尊崇の念をもって祀ってきたのである。
このコーナーでは太古、旧風早郡にあった風早物部饒速日王国建国の神とそれを奉じてきたわれわれ旧北条市民の先祖・物部氏について、様々な観点からの考察をラインナップしていきたい。
平成25年(2013)元日
風早物部饒速日王国サイト主宰
饒昇(じょうしょう) 敬白
皇祖神饒速日尊の復権(参考資料)
今や国会でも日本の歴史認識が叫ばれていますが、我が国の成立、大和朝廷の誕生について正しい認識をもたれている方は少ないと思います。
それは、これまでの古代文献として最も信奉されてきました『古事記』『日本書紀』に史実の改竄、隠蔽、創作があるためと考えられます。
『先代旧事本紀』によりますと、我が国の成立は、神武天皇が東遷される以前(3世紀初め)、饒速日尊という大神が北九州より32人の従者(神)と25部の物部(軍団)らを従えて大和に東遷され、当時大和の豪族長髄彦(ながすねひこ)を服従させ、その妹三炊屋(みかしきや)姫(ひめ)を妃として、畿内各所に32人の従者と25部の物部らを配置し、饒速日尊が本拠とした磯城(しき)(奈良県桜井市付近)を統治圏として我が国の基礎を形成したことに始まります。
饒速日尊が亡くなられた後、神武天皇が日向(ひむか)(九州南部)より東遷され、饒速日尊の御子伊須気余理比売(いすけよりひめ)と結婚され、饒速日尊の御子宇摩(うま)志(し)麻(ま)治(じの)命(みこと)より統治権を禅譲されて大和朝廷が創建されました。
これが我が国建国の真実の歴史と考えられます。その証に、神武天皇は橿原宮(奈良県御所市柏原か)で即位されるときに皇居のうちに皇祖神として、饒速日尊の御魂と御魂の憑代(よりしろ)と考えられる布(ふ)都(つ)主(ぬしの)剣(つるぎ)と天璽(あめのしるし)瑞(みずの)宝(たから)(十種(とぐさの)神宝(かんだから))を共に奉斎されました。
初期の天皇家の血筋は、男系は神武天皇ただ一人ですが、皇后は饒速日尊の御子伊須気余理比売を始め、その後の皇后は饒速日尊の神裔磯城県(しきのあがた)主(ぬし)(後の物部氏)から出自されており、皇后から誕生された皇子のみが次の天皇となる慣例でした。即ち、天皇家は饒速日尊の家系であるということです。
『古事記』『日本書紀』では神武東征として神武天皇が我が国を創建されたように考えられていますが、『先代旧事本紀』「国造(くにのみやつこ)(上代地方豪族で歴代天皇より土地の統治を認められた者)本紀」によりますと、神武天皇は饒速日尊の統治権(北九州の一部と瀬戸内の各所、畿内の全域)を譲られてより、多少は統治権を拡張していますが、神武天皇の皇子神八(かみやい)耳(みみの)命(みこと)とその御子健(たけ)磐(いわ)龍(たつの)命(みこと)が邪馬台国(九州全域)を併合し、各地に国造を認定することによって全国が統一され、日本国家が形成されました。
我が国の成立は実在した神代の神々である初期天皇家の成立と軌を一にするものであり、日本人として神代の神々を崇敬し、永久の繁栄を願うことは当然のことであります。
『古事記』『日本書紀』によって意図的に抹消されている我が国建国の基礎を築かれた饒速日尊を皇祖神として復権させることは、私たちにとって最も重要な成すべきことではないでしょうか。国家創造の正しい歴史認識こそ愛国心が培われる基であると思います。
皇祖神饒速日尊の復権に皆様のご協力をお願いします。
平成18年10月吉日
大野 七三
(著者の許諾を得て転載)
<著者>大 野 七 三(おおの しちぞう) 経歴 大正11年(1922)埼玉県狭山市に生る 昭和15年(1940)埼玉県所沢商業学校卒 役職 米国クレイトン大学哲学博士。同日本校特任教授 元狭山市文化財審議委員 元狭山市史編纂委員 元狭山市美術工芸専門調査員 著書 「狭山市の社寺誌」(狭山市教育委員会発行) 「先代旧事本紀・考」(発行所 ルーツの会) 「先代旧事本紀・訓註」(発売 新人物往来社) 「河鍋暁斉ー逸話と生涯」(発売 近代文芸社) 論文 「歪められた日本の古代史」 「邪馬臺国(全九州)」 「物部神道」 その他 |
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※上記アピールは、当ホームページ掲載に当たり、平成19年秋に埼玉県狭山市のご自宅を訪ね、特に大野氏から許諾を受けたものである。当日は物部氏やニギハヤヒについて意見交換を行った。 ニギハヤヒを大氏神と崇め奉る私たち旧北条市民にとって、他県の名だたる当代一流の研究家からのアピールを有り難く思いますし、先生の論旨を支持するものです。 |