[第1章]風早國造神主講演録・遺稿集
未来を担う風早の若者たちへ - 君達には物部氏の血が流れているんだ! -
正しい秋祭りの継承を願って
2 御鎮座の歴史
井上宮司
「御鎮座の歴史」でありますが、ご承知のように八反地(はったんぢ)の氏神様には2つのお社(やしろ)があります。
1つはお神輿を転がす石段があります。
それを上がりまして左脇に門があります。
八脚門(はっきゃくもん)といいますが、これは愛媛県の文化財に指定されています。
この八脚門をくぐりまして上がりますと、大きいお社があります。
これが國津比古命神社。
反対側のほうのお宮が櫛玉比賣命神社(くしだまのひめのみことじんじゃ)というふうになっております。
この2つのお社があるわけですが、これは第15代応神天皇です。
応神天皇様はそこにも書いておりますように、軽島豊明(かるしまとよあきら)の御代(みよ)に物部連の祖、伊香色男命(いかがしこうのみこと)の4代目の孫の阿佐利(あさり)という人がおいでになった。
この阿佐利が風早の国造(くにのみやつこ)に選ばれて、そして大和の国からこの風早の地に来られて、そしてこの風早の国を開拓・統治をしたわけです。
国造というのは現代でいいますと知事さんみたいなものでした。
知事さんは政治だけはしますけれども、お祭りはしないわけです。
国造というのは開拓・統治ですから、開拓使ですから政治も行うし、お祭りも行ったわけであります。
阿佐利命様はこちらへ国造として命を受けて来られるわけです。
そしてこの風早の地を開拓・統治をしました。
それが全部出来上がった。
そしてこの阿佐利命が「われ大御宝(おおみたから)の幸せを願う。
一願を成就せり」というふうに言われるわけです。
大御宝というのは人民です。
今でいう北条市の人々ということですね。
昔の風早というのは島嶼部(旧中島町)まで入りましたから、もっと広いわけです、松山市五明(ごみょう)なども入りますから。
ですからもっともっと広いわけですが、この風早の地を開拓・統治して、そして人々が幸せになる基礎を作られた。
そして「われ大御宝の幸せを願う。
一願を成就せり」。
「これは祖神の神々の恩頼(みたまのふゆ)によって成せるものなり」というふうに詠まれるわけです。
ご先祖様のお守りによって、ご加護によってそれはなされたものである。
私一人の力ではないんだという事柄なんです。
神々によってこの風早の地が開拓・統治をせられた。
「われ自ら風早の国造神主(こくぞうかんぬし)となり、この風早の地を統治せん」と言われる。
そして祖神の神々をお祀りをするようになった。
これが氏神様ができる起源です。
そういうようなことがらで、國津比古命神社、櫛玉比賣命神社というのをお祀りする。
國津比古命神社には誰をお祀りしてあるかといいますと、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと)、ちょっと長いんですが、そういうお名前がついておるわけです。
それからそのお子さんの宇摩志麻治命(うまじまじのみこと)。
このお二人の神様をお祀りしておるわけです。
それから櫛玉比賣命神社のほうにはそれのお妃、つまりこの饒速日尊様が御主人です。
そしてこの櫛玉比賣命神社にお祀りしておりますのが、天道姫命(あめのみちひめのみこと)と御炊屋姫命(みかしじやひめのみこと)、これが奥さんのほうです。
ですから、一つは御主人がお祀りしてあるし、一つには奥さんがお祀りをしてある。
そしてお二人が向かい合って、別々に離れていなくて、向かい合って、そして皆があそこを通る。
それを「ああ、やってるな、幸せか?」というふうにご覧になるわけです。
今はあそこにありますが、以前はもう少し向こうにあった。
向こうに宗昌寺(そうしょうじ)というお寺がありますが、そこのところに以前はあったわけです。
これが後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のときに今の地に遷されるわけです。
そういうふうに言われている。
そしてできました。
その横にも書いてありますように、第60代醍醐天皇の御代に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」というのができました。
その中に、この國津比古命神社、また櫛玉比賣命神社というお名前がちゃんと出ておるわけです。
この「延喜式神名帳」というのは全国の由緒あるお宮を全部書いた、早くいえばお宮の台帳なんですね。
ここのたとえば風早の国には國津比古命神社があり、櫛玉比賣命神社があり、そのお祀りしてある神様はこういう神様だということが、ちゃんと書かれている。
この「延喜式神名帳」の中に掲げられておりますお社が全国で2861社あるわけです。
それから神様の数に直していきますと、3132座あるわけなんです。
ですから延喜式の中に由緒ある神社というのは全国的にいいますと2861社あり、神様は3132あるわけですね。
これが「延喜式神名帳」の中に書かれている神社であります。
これは時代がずいぶん遡りますから、別名というふうに私は書いておきました。
皆さん方ご存じかどうか分かりませんが、國津比古命神社の下の別名として「櫛玉饒速日命(くしだまにぎはやひのみこと)神社」という時代もありましたし、また頭日八幡宮と書いて「かぐひ」八幡宮といいます。
これは後になって応神天皇をお祀りするわけですが、これは114代中御門(なかみかど)天皇のときに応神天皇、誉別命(ほんだわけのみこと)といいますが、お祀りをするわけです。
こういうふうに時代によって変わりますが、御祭神そのものは決して変わっておりません。
いくら戦国時代といいましても、ご神名だけは変わっていなかったということがらであります。
そしてもう一つあります。
櫛玉比賣命神社の下に祓座(はらいにます)大明神というふうに書いてあります。
これは皆さん方もいろいろな本をご覧になってお分かりになろうかと思います。
あとから出てまいりますので、ここでちょっとお話し申し上げたらと思います。
この字は「はらい」とも「ぬき」とも読まれます。
宝暦3年10月の書類をみておりますと、ヌキイニマス大明神といわれたこともあります。
それが変わりまして、ハライニマス大明神になった。
これは振り仮名がついております。
私が申し上げるのは、ハライニマス大明神というふうにお話ししたほうが早く分かると思いますので、そうします。
「イニ」は何かといいますと、これはこの字(黒板の字)が変わったものです。
「マス」はこのイニマスのマスが変わったものではないかと、私は思います。
そうしますと、ハライニマス大明神。
問題になるのは、「イニマス」というのはどういうことか。
こうひっつけますと、「ハライイニマス」神様となる。
これを櫛玉比賣命神社はクシダマヒメミコト神社ともいいますが、もう一つの言い方はハライニマスオオカミということです。
ハライニマスオオカミというのは、どうしてそうなるかということになるわけであります。
ハライニマスオオカミというのは奈良県の磯城(しき)郡というところに鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてらすみたま)神社という延喜式の神社があります。
カガミヅクリニマスアマテラスミタマ神社、このアマテラスミタマ神社というのは饒速日尊の神様をお祀りしているわけでありますが、何を司ったかといいますと、鏡作りを司った、そういう意味なんです。
しますと、先ほど私が言いましたハライニマスオオカミ、これはお祓いを司った神様です。
なぜお祓いを司ったかといいますと、皆さんご承知かもしれませんが、北条のところにナガソノハマ(長裾浜)というのがあったのをご存じないですか?北条の駅のちょっと向こうぐらい、これをナガソノハマといいました。
そしてそこに道がついている。
それをナガソ(長裾)道といいました。
もう一つは、これを勅使道ともいいました。
またその横に川が流れていますが、それは長裾川(ながそがわ)といわれていました。
今は長裾川とはいってないと思います(長沢川と表記して「ながそがわ」)。
これが先ほどお話ししましたように、以前に櫛玉さんが向こうの山のところにあるといいましたが、それから出ますと真っ直ぐな道がついているんです。
これが長裾道(ながそみち)です。
大体真っ直ぐな道が現在も残っています。
正岡小学校のちょっと南側に宗昌寺というお寺があります。
そこを出てちょっと見ますと、まっすぐな道がついています。
それをずっとたどっていきますと、今は家が建っていますが、そこをずっと行きますと海岸にでます。
それが長裾浜。
長裾浜へ大和から勅使がまいりまして、そしてそこで降りられて、その頃ですから汽車はないですから、船で降りられて長裾浜へ着いて、そこで船を降りられて、そして通っていったのがどの道か?それが長裾道です。
長裾道とは何か?長い裾(すそ)をひきずりながら歩いた道であります。
長い裾をひっぱったのは誰か。
それは勅使であります。
だから長裾道ともいうし、その道を勅使道とも呼ばれたわけです。
そしてどこに行ったか。
一番最初に行ったのは、この櫛玉比賣命神社に行った。
そして一番初めに何をしたか。
それは祓いをしたわけです。
今申し上げたように、お祓いをして、その次に奉幣を立てました。
そしてお祀りをしたわけです。
ですから一番最初にお祓いをしたのは、ここであります。
したがって、ハライニマスオオカミともいうたわけです。
これはまた後から出てきますが、ここでちょっとお話をしておいたらと思いましたので、お話をさせていただいたわけであります。
そういうふうにして、國津さんと櫛玉さんがでました。
特に櫛玉さんはハライニマスオオカミ様として、祓いを司ったわけなんであります。